原宿は、江戸時代初め頃から、歴史の中に登場する。 現在までの約四百年余りを、この街はどう過ごしてきたのだろうか。 歴史のページをめくりながら、いにしえの原宿を探訪する。

江戸  現在の「原宿」の基盤となる「原宿」「穏田」が史実に浮上してくるのが江戸時代。天正18年(一五九〇)徳川家康の江戸入符からである。 

時の幕府の江戸市街地建設は江戸の東側に造成した下町を経済活動の基盤とし、西側には外郭防衛地帯を画策したと思われる。現在の渋谷区は、江戸城から4〜6Km圏内にあり、この防衛線の西側に位置する。

同時に、この範囲が江戸の市街地と郊外を分けるものとなり、幕府は『甲州街道』に内藤家を、『大山街道』に青山家の下屋敷を配置そして、『甲州街道』の北側に位置する「大久保」に鉄砲隊、南側の「原宿」「穏田」には伊賀衆の組屋敷を配置した。東行すれば、四谷から半蔵門を経て江戸城へ直結し西進すれば八王子に千人組同心が待機という仕組みで江戸の守りを固めた。 

したがって、これらに続く渋谷の台地上には、数多くの武家屋敷が配置されたが、とくに今の「千駄ケ谷」から「原宿」、『青山通り』方面には、幕臣諸氏邸が密集して置かれていた。 

これらの屋敷群によって今の渋谷の台地上は充填され、西側の郊外農村地帯と文化交流は分断される形となった。その為、土着文化の発生やその伝承を「原宿」「穏田」に見ることは出来ない。 

さて、江戸の守護を担ってきた「原宿」「穏田」の暮らしの中心となったのが、葛飾北斎の「穏田の水車」に代表される水車による精米、製粉であった。この水車は、承応3年(一六五四)に完成した玉川上水の余水、渋谷川、三田用水の落水を使って動いていたという。渋谷川に最初に水車がかけられたのが、元録年間(一六八八〜一七〇三)頃、下渋谷(現在の恵比寿あたり)だったといわれている。 

江戸幕府治世下にあって「原宿」「穏田」はその初期から後期にいたるまで、大きな変化はなかったものの渋谷全体がやせた土地だったことから、農業生産は上がらず、農民の生活は苦しかったという。それだけに、この時代の人々の信仰心は厚く、日常の生活と深く結び付いていた。これは、現神宮前六丁目にある「長泉寺」の石仏群が大量に造られた年代を考えれば、想像も難しくないだろう。また、当時農民に欠かせなかったのが「雨ごい」の行事であった。「原宿」「穏田」両村の若い衆は、その雨ごいのために今の神奈川県にある阿夫利神社(丹沢の大山)、あるいは群馬県の榛名山に日帰りで詣でたという話も残っている。 

生活が厳しかったのは、農民と同じく、下級武士にとっても生活は厳しく、幕府からの扶持では当時の物価高では対応できず、「原宿」「穏田」の両村の界隈でも寺子屋の師匠になる者もあった。しかし、これらは明治維新後、家塾や公立学校設立の下地になったといわれている。また、傘張りの内職をする者も多かったようだ。明治初期には「原宿村」の物産のうち、傘六万本、傘口クロ(傘の骨を広げる部分)20万個の記録が残されている。主要交通が縦横する「原宿」「穏田」の界隈は、江戸御符内と江戸郊外の中継地となることによって、明治期以後への発展性の下地を作り上げていったといえそうだ。

(記事中の写真、原稿は、「写真集 原宿」を発刊された穏田表参道町会、半田庄司氏のご厚意で抜粋させて頂きました。)


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