原宿由来考

「原宿」「穏田」の由来


『原宿』という地名は昭和40年の住居表示変更以来、行政的には存在しないことになっている。
それ以前は、神宮前一〜四丁目あたりが「原宿町」と「竹下町」、『表参道』をはさんで向かい合った 五、六丁目が「穏田町」であった。そして、さらに時をさかのぼった明治初期の頃には、「原宿村」「 穏田村」の二村のみが存在していた。
 この「原宿村」「穏田村」の二村が歴史の中にその名を残したのは、江戸幕府が開かれる少し前の天 正18年、徳川家康の関東入国の頃である。
 内容は、「本能寺の変から無事帰国するまで、家康を警護した伊賀者はその功により服部半蔵の元で 厚遇され、さらに知行地を与えられた」というもので、それが「原宿村」「穏田村」の二村であった。
 では、この二村の名の由来だが、『原宿村』に関しては、江戸幕府が開幕される約50年ほど前に「小 田原衆新領役帳」のなかに《江戸原宿》と記されていることから、かなり古い地名であることがわかる。 また、その由来に関しては、『東京符豊多摩郡誌』に、「原宿村は、往古鎌倉街道に当たりしより、土 民は旅人の休憩所を出し、漸次人家を増加し、原宿なる名を附けたるなりと伝へらる」と説明があるよ うに、当時は宿場町であったことが伺える。また、相模国鎌倉から『鎌倉街道』がこの地へ通じていた ことは、「勢揃坂」のいわれに伝えられるとおり、具体的な裏づけがあるといえる。
 一方、『穏田村』の地名には、様々な由来説がある。「恩田氏を称する武士の居住に基づく」(太田 南畝『南向茶話』)「穏田村は元渋谷に属したるが、上杉定正の臣恩田五郎右衛門なるもの此の地に 隠遁し、其の子孫農民となり、俚俗恩田と呼びたるを、徳川氏之れを領するに至り穏田と改めたなりと いふ」(『東京符豊多摩郡誌』)
「穏田とはすなわち穏田にして、中古の田制名目に出で、あるいは恩田にもつくせり」(『大日本地名 辞書』) しかし、その由来に関しては未だ明かになっていない。
 ところで、「原宿村」とは違う、「原宿町」という地名があった史実が、嘉永4年(一八五一)に作 られた区画地図「江戸切絵図」に見られる。青山下野守の下屋敷の左手に[原宿町]の記述が見えるが、 正式には[青山原宿町]といい、元原宿村の一部で、元文3年(一七三八)に町並地となったもの。 文政以降嘉永6年の間(一八一八〜一八五三)には[青山緑町]と[山尻町]に分れている。

「原宿」「穏田」の地名変遷

 さて、明治22年の市町村制の施行によって、「原宿村」と「穏田村」は、「千駄ケ谷村」と合併する。 そして、住居表示が「千駄ケ谷村大字原宿」と「千駄ケ谷村大字穏田」と改称になった。
 さらに、明治40年には、その名が「千駄ケ谷町」となり明治7年の区制施行にともなう《町丁名改正》 が行われると「千駄ケ谷町」が「渋谷町」「代々幡町」とともに東京市に編入。「渋谷区」が成立する。 この時、現在の神宮前の区画内は、「原宿一丁目〜三丁目」、「穏田一丁目〜三丁目」と「竹下町」にな った。そして、この町丁名は、昭和40年3月に「神宮前」という町名が施行されるまで、およそ33年間に 渡り、住民に親しまれることとなる。
 「神宮前」の由来については「原宿」「穏田」双方ともに、その地名に歴史があり、決めかねたことから、《明治神宮の前にある》という地理的要素から新しい町名が用いられることとなった。とはいえ、 未だに、町会組織は旧住所で区分けされ、「原宿」「穏田」という地名への住民の愛着が伝わってくる。

(記事中の写真、原稿は、「写真集 原宿」を発刊された穏田表参道町会、半田庄司氏のご厚意で抜粋させて頂きました。)

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